まっくろせかい - 零版

幻想的〝芸術解題〟集

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『 私の16才 』 - 届かない告白の行方


「 夢 」 という言葉には、
眠っている時に見る夢の意味と、
実現するかどうかわからないけど将来やりたいこと、といった感じの意味と、2つありますよね。
(2つ目のはちょっと辞書で引いてから書いてみました。)

で、英語の dream にも両方の意味があるから、
おそらくこの2つ目の意味は、英語の dream の使い方を真似るような形で
日本語の 「 夢 」 もそういう使い方をするようになったとのだと思います。

だから、これは戦後からのことなのか、あるいはもっと古く別の欧州の言語からの影響も受けて
そういう使い方をしていたのか、まぁそこのところはちょっとわかりませんが…。


「 夢や希望 」 の話は以前にも書いていますが (8月17日付 『 鏡の中のあなたへ 』 参照) 、
じつのところ、私自身は 「 夢 」 という言葉、あんまり好きではない。


子供の頃も、将来なりたい職業なんて無かった。
たわむれに 「 電車の運転手になりたい 」 ぐらいのことは言ったかもしれないが、
なりたくない職業はあっても、本当になりたい職業など無かった。

人の役に立ちたいなんて思ったこともない。
人と関わることなど想定していない。
積極的・社交的に生きろみたいなことを学校の教師は言うけれど、
それを言っている人間が信用できない。
なりたくない職業は学校の先生だった。まだ小学生の頃の話だ。

小学校なんてものは馬鹿の養成機関だと本気で思う。
みんな小さいうちから 「 世間 」 の価値観に染まりきって、
最初から破綻した論理で頭をまわして生きていくことを学ぶ。



「 夢は実現しなければ意味がない 」 などと言うやつがいる。
勝手にしてくれ。

「 アイドルは夢を売る職業だ 」 とか言うやつもいる。
それってちゃんと意味がわかって言ってるのか?


これはアイドルというものの本質に関わる問題じゃないか。



「 アイドル 」 なんて言葉、今となっては、やや聞きすたれた感もありますが、
1980年代をピークに、かつて隆盛を極めた女性アイドルたちのなかで、
今でも現役バリバリで活動している最古参の大物アイドルといえば、誰を思い浮かべるでしょう。

私なら、やはり小泉今日子だ。

松田聖子という声も当然あがると思うけど、
小泉よりレコードデビューで2年先輩の松田聖子は、
いろいろあってもやっぱり優等生だから、私としてはあまり語りたくはない人だ。


そんな、優等生とは違う、ある種のカウンターパワーをもって日本を席巻することになる小泉今日子が、
まだそんな片鱗も見せない1982年、デビュー曲としてリリースしたのが 『 私の16才 』 だ。

知っている人も多いと思いますが、この 『 私の16才 』 という曲は、
かつて 森まどかが歌った 『 ねえ・ねえ・ねえ 』 (1979年)という曲のタイトルを変えて
小泉今日子がカバーしたものです (詞やメロディは原曲と同じ) 。


これは、もう純粋に片想いの世界。
好きな 「 あなた 」 に自分の気持ちを伝えたくて、
髪に紅いリラの花をさして待つのだけれど、 「 あなた 」 は 「 花言葉もわからない おバカさん 」 なので、
もちろん気持ちなど伝わるはずもない。

片想い。これは実現されることを待ち望む 「 夢 」 の一つの形でしょうか。


片想いといえば、私は頭の隅に長いあいだ引っかかっている一つのエピソードを思い出します。

私も学生時代には中高生向けのラジオ番組などをよく聞いていたものですが、
そんな番組によくあったのが、ごく軽いノリの 「 恋愛相談 」 のコーナー。
そこに寄せられるリスナーからの相談には、片想いに関する悩みの相談も多かったのですけれど、
不思議と何度も耳にするパターンとして、
「 片想いしている彼 (または彼女) になかなか気持ちを打ち明けられない。告白するべきでしょうか? 」
というものがありました。

でも、この手の相談に対する回答は、ほぼ決まりきったもので、
方法やタイミングの問題はあるものの、まず100パーセント 「 告白するべきです 」 と回答するのが常でした。

まぁそれも当然といえば当然かもしれません。
告白せずに諦めるよりも、ダメでもともと当たって砕けろ的な、
「 夢は叶えるためにある 」 的な、当時としては至極あたりまえな発想が大前提だったと思うし、
相談する側だって、むしろ背中を押してくれぐらいのニュアンスで相談していたんだと思います。

けど、そんな中、 「 告白しないままのほうがいい場合もある 」 という稀有な回答を一度だけ聞いたことがあります。
そう答えたのは、デビューしてまだ間もないシンガーソングライターの沢田聖子でした。
私の記憶が正しければ、大阪の毎日放送で 『 MBSヤングタウン 』 のパーソナリティを務めていた時のことです。
相談内容の詳細までは覚えていないのですが、
判で押したように皆が積極志向でものを言う当時の風潮に一石を投じるような沢田聖子のこの回答は、
私にとっては随分と印象的な出来事でした。



ところで、ひとくちに 「 片想い 」 の曲といっても様々で、

これから告白しようとドキドキしてる時の歌があるかと思えば。
逆に 「 片想いされてるんだけどこっちにはその気が全然ないのに困ったな 」 的な歌までいろいろある。


でも意外にも、いちばん多いんじゃないかと思うくらいしばしば登場するのが、
最初から告白するつもりなんて (おそらく) 全くないパターンの曲だ。


さらに言えば、この告白しないパターンの曲の中にも、いろいろと細かいバリエーションがあります。

誰も知らない、片想いの 「 あなた 」 との関係を秘かな喜びとして歌う、独特の透明感が印象的な
村田恵里のデビュー曲 『 オペラグラスの中でだけ 』 (1985年)。

告白する勇気もなく、ただただ届かない想いを抱いたまま涙に暮れる
佐野量子の 『 蒼いピアニシモ 』 (1985年)。


そして、今回とりあげた小泉今日子の 『 私の16才 』 もまた 「 告白しない片想い 」 の歌だと思います。

髪に紅いリラの花をさして、好きな 「 あなた 」 の前に現れる。
それに 「 あなた 」 が気付いてその恋が実れば、なんという素晴らしいファンタジーでしょう。

でも現実は違うはずだ。
髪にさした花が自分へのメッセージなのだと一体誰が気付くだろうか。
だいいち何の花なのか、花の名前さえわからない。
ましてや花言葉なんて知っているはずもない。



身もフタもないことを言うようだけど、ここはおとぎの国ではなかったはずだ。
『 私の16才 』 のヒロインは、一見挑発的な態度をとっているかように思えてしまいますが、
本当は初めから両想いになれることを (現実的に) 期待などしていないのではないでしょうか。

「 あなた 」 が気付かないのは 「 花言葉も知らない おバカさん 」 だからではなく、
彼女が現実的なアプローチを何一つせずに、
ただひたすら自分の空想の世界に酔いしれているだけだからです。


この一種の 「 自己陶酔感 」 は 『 私の16才 』 に限らず、
前述した村田恵里や佐野量子の片想いの曲の中にも見られるものです。



とりわけ村田恵里の 『 オペラグラスの中でだけ 』 には 「 自己陶酔感 」 が顕著に現れている。
曲が始まればすぐに、幸せな空気に包まれた心の風景が目の前に広がるはずだ。

例によってと言うべきか、この曲の中でも、
「 わたし 」 は 「 あなた 」 と同じブルーのスニーカーを履いて
「 あなたの前をそれとなく歩い 」 たりしてみせる。

これは、髪に花をさすファンタジックなサインに比べれば、ずっと現実的なアプローチだと私は思いますが、
告白こそしないけれど、いつか気付いてくれることを待ち望む切ない想いは、やはり健在なのです。

そして、この 『 オペラグラス… 』 のとても素晴らしいところは、
全体のイメージは空想的で明るい陶酔感に満ちてはいるけれど、
自己完結的に安定していて、歪んだ妄想や挑発には決して走らない理性が感じられる点だと思う。
「 わたし 」 は言う。

「 一度好きよと言ったなら だれにも 取り消せないの 」

『 オペラグラスの中でだけ 』 のヒロインは知っている。
「 実現されることのない夢 」 の一つのあり方というものを。
諦めとも失恋とも違う、特別な恋の境地を。

それは、かつて沢田聖子が恋愛相談の回答のなかで伝えようとしたイメージにも通じるものだと思います。



一体どういう経緯で森まどかの 『 ねえ・ねえ・ねえ 』 という曲が
小泉今日子のデビュー曲としてサルベージされることになったのか、私は寡聞にして知りませんが、
「 告白することのない片想い 」 あるいは 「 実現されることのない夢 」 を秘かなモチーフにした 『 私の16才 』 は、
その後続々とヒットを飛ばし続け、
『 なんてったってアイドル 』 (1985年) でアイドルの高みにまで登りつめた後も
ビッグネームとして着実にキャリアを重ねながら現在のポジションにまで至る
小泉今日子の長い道のりの出発点となりました。



あらためて小泉今日子の初期のベスト盤を聴いてみて思う。

夢と現実の境界をそっと取り払うように、
『 私の16才 』 から始まる一連の作品世界と
一人のアイドルが歩んできた道のりを重ね合わせて、

小泉今日子と私たちとの 「 恋 」 の歴史を振り返るとすれば、
それはこんな物語になるのではないか。


「 ありふれた通学路、現実世界の風景の片隅で髪に花をさして
自分のファンタジーから抜け出せず、
夢を叶えるすべを持たなかったヒロインは、

時を経て、自身の内に秘めたファンタジーの力を次第に強めながら、
やがて世界に次々と光を放つように
誰も見たことのないアプローチの数々で私たちを魅了し始める 」
                

ファンタジーで現実を変えられなかった一人の少女が、
現実をファンタジックな夢の世界へと塗り変えてゆく姿を、
私たちは目にしてきたのかもしれません。






リラの花言葉は、 「 初恋の感激にふるえています 」 。







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  1. 2014/09/14(日) 23:35:23|
  2. 音楽
  3. | コメント:0

アウトサイダーとしての宮崎あおいと二階堂ふみ


レンタルで、映画 『 ヒミズ 』 を見た。


邦画を見る時は、基本的にキャストを見て選ぶ。

要は女優さんしだいなのだが、
『 ヒミズ 』 のヒロインの二階堂ふみに関しては、すでにマスコミやネット上などで、
「 宮崎あおいに似てる 」 あるいは 「 ポスト宮崎あおい 」 などと取り沙汰されていることは皆さんご存知のとおりです。


容姿が似ていることと、ポスト云々と評価されることとは、もちろん別の話だし、
プロの女優としては、 「 似ている 」 なんて言われるのはあまり面白くないことかもしれない。

だけど、 「 似ている 」 と言われれば、私もそれを否定するつもりは全くないし、
二階堂ふみを宮崎あおいのフォロワーとして見ている人が多くいるのも事実だと思います。



では、そもそも宮崎あおいってどういう女優なのでしょう。


宮崎あおいがどういう特性を持った女優であり、
日本の映画やドラマの世界の中でどういう役割を担ってきたかということについては、
人それぞれいろいろな見方があるでしょうし、一言で表現するのは難しいことだと思います。

でも、二階堂ふみが 「 ポスト宮崎あおい 」 として語られる時、
それを語る人たちが共通して想い描く女優・宮崎あおいのイメージがあるとすれば、

おそらく それは 最も魅力的なアウトサイダーの一人

(正確に言えば 「 最も魅力的なアウトサイダーの演技者の一人 」 )ということになるのではないでしょうか。
少なくとも私はそのように考えています。



アウトサイダーとは何か?

それは日常世界の枠組みの外側を生きる者。

それは、特別な経験を携えて生きる (ことを強いられた) 者。
それは、特別な環境のなかに生きる (ことを強いられた) 者。
それは、特別な能力を持って生きる (ことを強いられた) 者。



もちろん、映画やドラマは多かれ少なかれ非日常の世界を表現するのが通例なのだから、
このようなアウトサイダーの存在は珍しいものではないし、
他の多くの女優たちもアウトサイダーを演じているわけです。

また逆に、宮崎あおいもアウトサイダーに特化したような異色の女優というわけではなく、
普通の 「 日常者 」 としての役も多く、NHKの連続テレビ小説や大河ドラマで主役を演じたことからもわかるように、
パブリックイメージとしては至ってノーマルな女優として大衆に認知されていると思います。

今まで彼女が演じてきた数々の人物の中で、一体 「 アウトサイダー 」 と呼べるものがどれだけあったか、
もしかしたら、出演作品全体に占めるパーセンテージからすれば、それほど多くはないのかもしれません。


にもかかわらず、私が敢えて宮崎あおいを 「 魅力的なアウトサイダー 」 として規定するのは、
世間一般の認知や、演じてきた役柄の履歴がどうあれ、

彼女の持っている、最も自然で最も深い表現を可能にする天性の領分、
つまり 「 宮崎あおい本来のテリトリー 」 とでも言えるものが、アウトサイダーの演技にあると確信しているからです。



それと、もうひとつ。

これもアウトサイダー演技者としての特性と渾然一体のものだと思ってもらってかまいませんが、
女優・宮崎あおいに特徴的な、もうひとつの大きな持ち味として、
うまくは言い表わせないけれど、強いて言うなら、

「 祭祀者としての存在感 」 というものがあると思うのです。


「 祭祀者 」 とは、いわばある種の超越的な存在みたいな意味合いで私が創作した言葉ですが、

希望や喜び、不安や憂鬱といった心象を自ら体現して、
作品世界に独自の色や匂いをもたらすような、静かな語り部、あるいは神託を告げる巫女のような存在です。


なにぶん神がかり的な発想で恐縮ですが、
これはなにも特別なことを言っているわけではなく、
物語の演技者であれば誰もが多少なりとも担っている役割と言っていいかもしれません。
でもそれを独特の存在感で色濃くやってくれるのが宮崎あおいだと言いたいのです。

これはアウトサイダーを演じる場合も、日常者を演じる場合も同じです。


「 祭祀者 」 は、アウトサイダーのように物語の役柄として表に登場するわけではないので、
ちょっと理解しづらいと感じる人も多いかと思います。
「 祭祀者 」 は、それ自体が演じられるものではなく、
劇中の人物に憑依するかのようにオーバーラップする存在と考えればいいでしょう。

「 祭祀者としての存在感 」 とは、
役者自身の人格全体から放たれて、作品世界に 「 意味 」 を与える波動のようなものなのです。



ただ、時としてこの 「 祭祀者 」 としての存在が、ある程度明示的な形で物語の中に登場することはあります。


たとえば、映画 『 ヒミズ 』 には、
二階堂ふみが、象徴的・明示的な形で、この 「 祭祀者 」 的な存在を演じている場面がありました。

映画の冒頭、震災後の瓦礫の情景が映し出されるなか、
二階堂演じる茶沢景子が、雨に打たれながらヴィヨンの詩を朗読する場面がそれです。

ありがちな演出と言われれば確かにそうかもしれませんが、
この短い場面は、作品世界に混沌と不安の風を吹き込む重要な意味を持っていると思います。






さて、宮崎あおいの後ろを10年ほど遅れて走り始めた、この二階堂ふみという 「 フォロワー 」 。
結局どうして似ているのかは、よくわからない(!)。

そして、じつはアウトサイダーの演技者としては、宮崎あおいよりも、もっとずーっと外側の、
もうこれでもかと言わんばかりの日常世界のキワキワの外縁に放り出されて、
ひたすら走り続けているらしいということを、もう皆さんは知っていると思います。


なんという熱血の 「 フォロワー 」 でしょう。
少なくとも外観上はそうだ。



『 ヒミズ 』 では、好きな男子のストーカーを自任して奇行(?)に走るような、けれど根は純情な中学生(家庭環境は異常)。

これが映画 『 脳男 』 では、何の躊躇もなく人を殺せるイカれた爆弾魔の殺人犯。

もちろん何かと話題になってる 『 私の男 』 や 『 渇き。』 といった作品も見ねばなるまい。



これら二階堂ふみの 「 超アウトサイダー 」 としての演技や設定は、一体何が要求するものなのでしょう?
「 時代が要求する 」 とでも言ったら、あまりにもウソっぽいか…。


でも確かにやらせてみたいだろう、監督だったら。イカれた演技やキワキワの設定。
表現される作品世界そのものが、どんどんキワキワになっていますから。
やらせるためには表現者が必要。


そして、世界の外縁を走り続けることを強いられる二階堂ふみ。
おそらくは、自らも望んで世界の外側に放り出される二階堂ふみ。




大きなお世話だろうけれど、これからどうなっていくのか見続けたいと思います。

そして、こちら側に戻ってこれなくならないことをお祈り申し上げます。









  1. 2014/09/01(月) 22:56:07|
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