まっくろせかい - 零版

幻想的〝芸術解題〟集

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アウトサイダーとしての宮崎あおいと二階堂ふみ


レンタルで、映画 『 ヒミズ 』 を見た。


邦画を見る時は、基本的にキャストを見て選ぶ。

要は女優さんしだいなのだが、
『 ヒミズ 』 のヒロインの二階堂ふみに関しては、すでにマスコミやネット上などで、
「 宮崎あおいに似てる 」 あるいは 「 ポスト宮崎あおい 」 などと取り沙汰されていることは皆さんご存知のとおりです。


容姿が似ていることと、ポスト云々と評価されることとは、もちろん別の話だし、
プロの女優としては、 「 似ている 」 なんて言われるのはあまり面白くないことかもしれない。

だけど、 「 似ている 」 と言われれば、私もそれを否定するつもりは全くないし、
二階堂ふみを宮崎あおいのフォロワーとして見ている人が多くいるのも事実だと思います。



では、そもそも宮崎あおいってどういう女優なのでしょう。


宮崎あおいがどういう特性を持った女優であり、
日本の映画やドラマの世界の中でどういう役割を担ってきたかということについては、
人それぞれいろいろな見方があるでしょうし、一言で表現するのは難しいことだと思います。

でも、二階堂ふみが 「 ポスト宮崎あおい 」 として語られる時、
それを語る人たちが共通して想い描く女優・宮崎あおいのイメージがあるとすれば、

おそらく それは 最も魅力的なアウトサイダーの一人

(正確に言えば 「 最も魅力的なアウトサイダーの演技者の一人 」 )ということになるのではないでしょうか。
少なくとも私はそのように考えています。



アウトサイダーとは何か?

それは日常世界の枠組みの外側を生きる者。

それは、特別な経験を携えて生きる (ことを強いられた) 者。
それは、特別な環境のなかに生きる (ことを強いられた) 者。
それは、特別な能力を持って生きる (ことを強いられた) 者。



もちろん、映画やドラマは多かれ少なかれ非日常の世界を表現するのが通例なのだから、
このようなアウトサイダーの存在は珍しいものではないし、
他の多くの女優たちもアウトサイダーを演じているわけです。

また逆に、宮崎あおいもアウトサイダーに特化したような異色の女優というわけではなく、
普通の 「 日常者 」 としての役も多く、NHKの連続テレビ小説や大河ドラマで主役を演じたことからもわかるように、
パブリックイメージとしては至ってノーマルな女優として大衆に認知されていると思います。

今まで彼女が演じてきた数々の人物の中で、一体 「 アウトサイダー 」 と呼べるものがどれだけあったか、
もしかしたら、出演作品全体に占めるパーセンテージからすれば、それほど多くはないのかもしれません。


にもかかわらず、私が敢えて宮崎あおいを 「 魅力的なアウトサイダー 」 として規定するのは、
世間一般の認知や、演じてきた役柄の履歴がどうあれ、

彼女の持っている、最も自然で最も深い表現を可能にする天性の領分、
つまり 「 宮崎あおい本来のテリトリー 」 とでも言えるものが、アウトサイダーの演技にあると確信しているからです。



それと、もうひとつ。

これもアウトサイダー演技者としての特性と渾然一体のものだと思ってもらってかまいませんが、
女優・宮崎あおいに特徴的な、もうひとつの大きな持ち味として、
うまくは言い表わせないけれど、強いて言うなら、

「 祭祀者としての存在感 」 というものがあると思うのです。


「 祭祀者 」 とは、いわばある種の超越的な存在みたいな意味合いで私が創作した言葉ですが、

希望や喜び、不安や憂鬱といった心象を自ら体現して、
作品世界に独自の色や匂いをもたらすような、静かな語り部、あるいは神託を告げる巫女のような存在です。


なにぶん神がかり的な発想で恐縮ですが、
これはなにも特別なことを言っているわけではなく、
物語の演技者であれば誰もが多少なりとも担っている役割と言っていいかもしれません。
でもそれを独特の存在感で色濃くやってくれるのが宮崎あおいだと言いたいのです。

これはアウトサイダーを演じる場合も、日常者を演じる場合も同じです。


「 祭祀者 」 は、アウトサイダーのように物語の役柄として表に登場するわけではないので、
ちょっと理解しづらいと感じる人も多いかと思います。
「 祭祀者 」 は、それ自体が演じられるものではなく、
劇中の人物に憑依するかのようにオーバーラップする存在と考えればいいでしょう。

「 祭祀者としての存在感 」 とは、
役者自身の人格全体から放たれて、作品世界に 「 意味 」 を与える波動のようなものなのです。



ただ、時としてこの 「 祭祀者 」 としての存在が、ある程度明示的な形で物語の中に登場することはあります。


たとえば、映画 『 ヒミズ 』 には、
二階堂ふみが、象徴的・明示的な形で、この 「 祭祀者 」 的な存在を演じている場面がありました。

映画の冒頭、震災後の瓦礫の情景が映し出されるなか、
二階堂演じる茶沢景子が、雨に打たれながらヴィヨンの詩を朗読する場面がそれです。

ありがちな演出と言われれば確かにそうかもしれませんが、
この短い場面は、作品世界に混沌と不安の風を吹き込む重要な意味を持っていると思います。






さて、宮崎あおいの後ろを10年ほど遅れて走り始めた、この二階堂ふみという 「 フォロワー 」 。
結局どうして似ているのかは、よくわからない(!)。

そして、じつはアウトサイダーの演技者としては、宮崎あおいよりも、もっとずーっと外側の、
もうこれでもかと言わんばかりの日常世界のキワキワの外縁に放り出されて、
ひたすら走り続けているらしいということを、もう皆さんは知っていると思います。


なんという熱血の 「 フォロワー 」 でしょう。
少なくとも外観上はそうだ。



『 ヒミズ 』 では、好きな男子のストーカーを自任して奇行(?)に走るような、けれど根は純情な中学生(家庭環境は異常)。

これが映画 『 脳男 』 では、何の躊躇もなく人を殺せるイカれた爆弾魔の殺人犯。

もちろん何かと話題になってる 『 私の男 』 や 『 渇き。』 といった作品も見ねばなるまい。



これら二階堂ふみの 「 超アウトサイダー 」 としての演技や設定は、一体何が要求するものなのでしょう?
「 時代が要求する 」 とでも言ったら、あまりにもウソっぽいか…。


でも確かにやらせてみたいだろう、監督だったら。イカれた演技やキワキワの設定。
表現される作品世界そのものが、どんどんキワキワになっていますから。
やらせるためには表現者が必要。


そして、世界の外縁を走り続けることを強いられる二階堂ふみ。
おそらくは、自らも望んで世界の外側に放り出される二階堂ふみ。




大きなお世話だろうけれど、これからどうなっていくのか見続けたいと思います。

そして、こちら側に戻ってこれなくならないことをお祈り申し上げます。









  1. 2014/09/01(月) 22:56:07|
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